「将棋を指す人間の心理」を描く
──本作は原作小説をお読みになった監督の強い思いで企画されたと聞きました。原作のどこに魅かれたのでしょうか。
やはり一番大きいのは、主人公・上条桂介の存在ですね。もちろん真剣師・東明重慶もそうですが、将棋がなければ生きていけない人間です。彼らにとって将棋は「なくてはならないもの」であり、それがあるからこそ人生に意味が生まれ、同時に大きな苦しみや試練も背負うことになった。でも、その苦しみを経験して初めて見えてくるものもある。そうして見えたものが人生を豊かにしていく。将棋に救われ、最後まで「生き切る」。それができた人たちの物語だと感じました。そこにとても惹かれ、映画化したいと思ったんです。
大ヒット中の『国宝』は歌舞伎なしには生きられない人々の話ですが、この作品は将棋なしでは生きられない人々の話です。そういう話はご覧になった方もまた、そこから多くのことを感じ取り、様々な影響を受けるはず。だから人間ドラマとしてとても魅力的でした。
──桂介を演じた坂口健太郎さんとは、役作りについて、どのような話をされましたか。
桂介という人物は、心に闇を抱えながらもどこか光を求めている。坂口さんには「君自身が持っている光を信じてほしい」と伝えました。彼は非常に透明感のある俳優で、彼の素の光を役の中でどう生かすかが鍵でした。
撮影中も「この場面ではもう少し闇に寄せてほしい」「ここでは逆に光を強く意識してほしい」と細かくニュアンスを共有しましたが、坂口さんはすぐに反応してくれる。桂介が抱える迷いや葛藤がスクリーンにきちんと映し出されたのは、彼の柔軟さと誠実さがあってこそだと思います。

──桂介がマンションのベランダを乗り越えそうなシーンがありましたが、ハラハラしました。
あそこはドローンを使い、寄れるところまで寄ってから、そのままぐっーと引いていきました。すべてワンカットで撮っています。坂口さんは安全確保のためのワイヤーで上から吊ってしっかり固定し、後処理でワイヤーを消しました。安全に配慮しているとは言え、かなり高所ですし、難しい演技もお願いしており、坂口さんの精神的な負荷はかなり大きかったと思います。大変感謝しています。
──渡辺謙さん演じる東明の登場シーンは強烈でした。
あの場面は、完全に闇の中から東明が現れるようにしたいと考えていました。照明も通常よりさらに落とし、グレーディングで闇を強調しました。まるで闇そのものが人の形を取って現れたかのように見せたかったのです。謙さんがそこに立つだけで成立しました。

──東明はいるだけで緊張感を生じさせます。どのように演出されたのでしょうか。
謙さんはやはり圧倒的な存在感を持っています。セリフを発する前から空気が変わる。だからこそ、撮影前にしっかり意見とアイディア交換しましたが、現場では余計なことを言わず、環境を整えることに徹しました。あまり細かく注文せず、まずは謙さんに演じてもらう。そして「もう少し抑えて」「ここは強めに」と必要な調整だけを伝えるようにしました。
──将棋のシーンは緊張感が途切れず、観ている側も息が詰まるようでした。盤上の心理戦はどのように表現されたのですか。
僕が描きたかったのは、将棋そのものよりも「将棋を指す人間の心理」でした。駒の進行は専門家に監修していただきましたが、演出の中心は役者の表情、駒を指す音、間合いでした。
桂介と東明が向かい合う場面では、2人の心の奥にあるものが将棋を通してぶつかり合います。坂口さんと謙さんが盤を挟んで向かい合って座るだけで現場に張り詰めた空気が流れました。観客が盤上の一手一手に意味を感じられるよう、役者の呼吸やわずかな仕草を丁寧に拾っていきました。
将棋の駒を指す音は音響効果の柴崎憲治さんがご自身の会社の効果音専用スタジオに高価な将棋の駒などを持ち込んで、チームで作り上げてくれました。柴崎さんは僕が何も言わなくても「監督はこういう狙いだろ」と、キャラクターや場面ごとに音の質感など全てを変えて作ってくださる。桂介が将棋道場に引き寄せられる場面では、音の間合いで感情の演出までしています。その結果、将棋の駒の音は作品全体を引き締める役割を果たし、映画の厚みが驚くほど大きく増しました。
──将棋を知らない人でも引き込まれるのは、その心理戦が伝わるからかもしれません。
そう思ってもらえたのならうれしいです。僕自身は将棋の専門的な知識を持っているわけではありません。だから「詳しい人が見てもリアル」「知らない人が見ても面白い」の両立を目指し、カメラの動きやカット割りのリズムにはとても気を配りました。観客が「この一手で何かが動く」と感じることを大事にしました。

