消しきれない痕跡と「夫婦の物語」への重心移動
──甲本家の子供部屋の壁には翔が描いた江ノ電の線路の絵がありましたが、ヒューマノイドの翔が来たときにはそれが消されていました。しかし、何かが描いてあったことはわかるような消し方で、少し中途半端にも見えました。音々も健介も職業柄きれいに消すことができたはずです。あえて中途半端な状態にしたところに、監督の意図があるのを感じました。
あれは“健介が消した”という設定ですね。ただ、全部は消しきれないんです。
そもそも、まだヒューマノイドの翔を受け入れること自体にためらいがある。RE birth社へ事前に送るデータを“楽しいものだけでいいのか”と迷うのもそうですが、健介がヒューマノイドの翔を受け入れる動機は、音々が笑わなくなっている——その笑顔を取り戻せるかもしれない、という思いなんですよね。
一方で音々は、自分の中にある喪失を埋めようとして受け入れている。もし音々が壁を消すとしたら、おそらく一度きれいに白に戻すと思うんです。でも健介は、そこまでこの存在を受け入れきれていないし、何より“本来の翔”を消すことができない。その揺れが、あの壁に表れているんです。
意図としては、「きれいに消そうとしたけれど、結果的に消しきれなかった」という状態にしています。だからこそ、後になって自分からヒューマノイドの翔に「翔は電車が好きだったんだ」と語ります。電車の話題を避けようとしているのに、そのズレが無意識のうちに出てしまう。その感覚を、壁の痕跡として残したかったんです。

──当初は“家族の物語”として書き始めた脚本が、撮影を経て“夫婦の物語”へと変化したとのことですが、その変化は何をきっかけに起きたのでしょうか。
そこまで大きな変化があったわけではないんです。編集の段階に入ってから、「これは親子の物語というよりも、夫婦の物語として見ていったほうがいいかもしれない」と感じ、そこから、少しずつそちらの軸で見ていきました。ほんの少しの調整というか、微妙な重心の移動のようなものですね。
撮影しながら、そして編集しながら、自分の中でほんの少しずつニュアンスを変えていく——そういう積み重ねの中で生まれた変化なので、「この瞬間に切り替わった」という明確なポイントがあったわけではありません。強いて言えば、編集に入ってから気づいた、というのが一番近いと思います。

──夫婦って、本当にさまざまな形がありますが、そもそも何で繋がっているものだとお考えですか。この作品ではどのように描こうとされたのでしょうか。
うーん、難しいですよね。ガラスと木のように、まったく異なる素材を一つにするのは大変だけれど、だからこそ面白い——建築ってそういうものだと取材中に聞きましたが、夫婦も同じだと思うんです。
──家族というと血の繋がりというイメージがありますが、夫婦にはそれがありませんよね。
そうなんですよ。まったく血の繋がりがない。だからこそ、あえて「ガラスと木」のような関係として描こうと思いました。

タイトルと響き合う「箱」の家と、制作のプロセス
──音々の自宅の俯瞰ショットはいくつもの箱が置かれているように見えました。『箱の中の羊』というタイトルとの関係性についてお聞かせください。
最初からそのイメージに限定して探していたわけではないんです。東京近郊で建築家が手がけた住宅をいくつかピックアップしてもらい、実際に見て回りました。いい家はたくさんあったのですが、「狭いな」とか「スタッフが入らないな」といった現実的な条件もあって。
そんな中で、あの家にたどり着いたときは、「ここだ」と直感的に思いました。「ここなら描ける」と感じたんです。制作部に強くお願いして実現しました。建築家の奥さんと工務店勤務の旦那さんというご夫婦のご自宅で、お二人の仕事が作品の設定と重なる部分があったのも大きかったですね。全面的に協力していただいています。
中庭の渡り廊下から、電車がちらっと見えるんですよね。あれは横須賀線なんですが、ロケハンのときに「ここから電車が見えるね」と話していて、だったら二人で並んで駅名を言い合うシーンができるな、と発想が広がっていきました。住んでいる方は「もう音は気にならない」とおっしゃっていましたけど。
俯瞰で見たときに“箱”のように見える、というのはカメラマンの発見でした。ドローンで上から撮ると、確かにいくつもの箱が並んでいるように見える。その視覚的な印象が、結果的にタイトルとも響き合う形になったと思います。

──建築家の音々が「正解に辿り着くまで悩みたい。それが生きること」と語ります。この価値観は監督ご自身にも通じるものですか。
僕自身も、基本的にはそう考えています。建築家の方への取材で聞いたのか、本で読んだのかははっきり覚えていないのですが、「プロセスが大事だ」という言葉が強く残っていて。建築にたどり着くまでの過程そのものに意味がある、無駄ではない、という考え方ですね。
映画づくりもまったく同じだと思っています。編集してみて、また脚本に戻って直して…、ということを今でも繰り返していますが、そういうプロセスの積み重ねが作品になっていく。
ヒューマノイドの子どもたちがRE birth社に集められたシークエンスを丸々カットしたことも含めて、どの工程も無駄ではなかったと思っています。
編集の段階で作品の意味合いが大きく変わることも実際にありますし、今回もそういう変化がありました。
結果的に、この作品は当初考えていたよりも、ずいぶん寓話的で、思索的なものになったと思います。夫婦の物語として始まったものが、いつの間にか人間そのものをめぐる話へと広がっていった。
グリーフワークが終わり、再び動き出す物語になるだろうとは思っていましたが、それ以上に、あの“森”が何に見えるのか——より哲学的で観念的な領域に踏み込んでいった印象があります。最初に想定していた着地とは、少し違うところにたどり着いたのかもしれませんね。

<PROFILE>
監督・脚本・編集:是枝裕和
1962 年、東京都出身。2014 年に制作者集団「分福」を立ち上げる。1995 年に『幻の光』で監督デビュー。『誰も知らない』(04)、『そして父になる』(13)、『海街 diary』(15)などを世に送り出す。2018年の『万引き家族』は、第71回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞し、第91回アカデミー賞®外国語映画賞にノミネートされる。2019 年の『真実』で海外の映画人とのセッションを本格化させ、2022年には初の韓国映画となる『ベイビー・ブローカー』で、第75回カンヌ国際映画祭でエキュメニカル審査員賞を受賞。2023年にはNetflixシリーズ「舞妓さんちのまかないさん」が世界配信、『怪物』が第 76 回カンヌ国際映画祭で脚本賞(坂元裕二)とクイア・パルム賞をW受賞する。その後も2025年にNetflixシリーズ 「阿修羅のごとく」が世界配信される。
『箱の中の羊』5月29日(金) TOHOシネマズ 日比谷 他 全国ロードショー
『箱の中の羊』予告編90秒【5/29(金)全国ロードショー!】
www.youtube.com<STORY>
息子の翔(かける)を亡くして2年、建築家の音々(おとね)と工務店の二代目社長を務める健介の甲本夫婦は、ヒューマノイドを迎え入れることに。息子の姿をした<彼>の帰宅に、「おかえり、翔」と喜びを隠さない音々と、「いらっしゃい」としか言えず戸惑いを隠し切れない健介。 再び家族の時間は動き出し、最新の生成AIで翔として“成長”していく<彼>を、徐々に受け入れていく健介と、在りし日の息子・翔と<彼>の存在のギャップに違和感を覚えていく音々。静かに波紋が広がっていく。 ほどなく予期せぬ事態が起こり、夫婦がそれぞれに抱く息子の死への想いが露わになる。 そんな中、ヒューマノイド翔は密かにヒューマノイドの仲間たちとつながり始めていた─。
<STAFF&CAST>
監督・脚本・編集: 是枝裕和
音楽:坂東祐大
撮影:近藤龍人
照明:尾下栄治
録音:冨田和彦
美術:岡田拓也
装飾:浜崎はるみ
出演:綾瀬はるか 大悟(千鳥) 桒木里夢 清野菜名 寛一郎 柊木陽太 角田晃広 野呂佳代 星野真里
中島歩 余貴美子 田中泯
配給:東宝 ギャガ
©2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.



