目に見えない凶器が引き起こす惨劇。『名無し』はファンタジックな設定を借りながらも、観る者の倫理観を激しく揺さぶる徹底した不条理スリラーだ。俳優・佐藤二朗が放つ尖った脚本を鬼才・城定秀夫監督はいかにして映画の論理へと翻訳したのか。犯人への同情をあえて突き放し、丸山隆平やMEGUMIらと共に人間の底知れない狂気を炙り出した演出の裏側には、暴力を「娯楽」として描くことへの監督独自の葛藤と覚悟があった。「変な映画」であることを自負し、既存の枠をはみ出した挑戦作。城定監督が本作に込めた並々ならぬ執念と、制作の舞台裏に迫る。(取材・文/ほりきみき)

日本映画の枠をはみ出す尖った脚本を映画にするための格闘

──脚本を一読して「面白いけど……コイツはなかなかの難産になるぞ」と直感的に思ったとコメントされていますが、どこに面白さを感じられたのでしょうか。

一概には言えませんが、単純な映画の構成論を超えたエネルギーを感じました。この企画が成立するまでに紆余曲折を積み重ねてきたという背景も含めて、今の日本映画の既存の枠にはまっていない。その「枠からはみ出している」感じが、良くも悪くも際立っていました。

もちろん、それを映画として枠にはめていく実作業の苦労は容易に想像がつきましたが、それ以上に「この変なものを撮れる面白さ」が勝りましたね。

こうした尖った、ある種「変な映画」というのは、今の業界ではなかなか企画が通りません。しかし、佐藤二朗さんという稀有な存在があり、彼の才能が呼び水となったからこそ、ようやく今、実写化という形で成立している。僕が自分一人で提案しても絶対に通らないような挑戦的な企画に、監督として挑める。 そこに大きなやりがいと面白さを感じました。

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──監督はキャリアを通じて膨大な数の脚本を読まれてきたと思いますが、やはり今回は、これまでのどれとも違う「異質な何か」があったのでしょうか。

そうですね、先ほどお話しした通り、最初から最後まで「イレギュラー」な脚本でした。この物語は、佐藤二朗さんという俳優が描いたものです。もちろん二朗さんはクリエイターとしての鋭い視点も持っていますが、やはり「俳優としての佐藤二朗」という要素を抜きにしては成立しない、そんな二朗さんならではの唯一無二の企画だと感じました。

いわゆる理詰めで作られた構成案とは違い、俳優としての感性や肉体性が脚本の根底に流れている。そこが今までの作品にはない、独自の魅力であり、強みなんだと思います。

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──決定稿が完成するまでには、具体的にどのような作業を積み重ねられたのでしょうか。

基本的には二朗さんとの綿密なすり合わせの連続でした。二朗さんに書いてもらったものを僕が戻したり、あるいは僕の方で先に筆を入れたりといったやり取りですね。

特に時間を割いたのは、世界観の設定を細かく作り上げていく作業です。元の脚本は、二朗さんの「野生の勘」ともいうべき直感で書かれている部分が多く、設定が敢えて曖昧にされているところがありました。しかし、そのままでは映像化する際に綻びが出てしまう。そこで、先ほどお話しした「右手の三原則」のようなルールを後付けで整備していったんです。

例えば、「右手が触れたものが消える」といっても、ペットボトルを握った時に「キャップだけが消えるのか」「ボトルが消えて中身の水がこぼれるのか」といった具体的な描写に直面します。「壁を触ったら建物が消えてしまうのではないか」という疑問も出てくる。

そこで、消える対象を「本人の認識」に委ねることにしました。「二朗さんがこれをペットボトルだと思って握れば、丸ごと消える」というルールです。そうした論理的な裏付けを一つずつ決めていくことで、ようやく決定稿として成立させることができました。

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──原作・脚本・主演の三役を担った佐藤二朗さんと、作品の空気感や「山田太郎」というキャラクターをどのように構築していったのでしょうか。

このプロジェクトは、一つの元となるシナリオから「漫画」と「映画」に枝分かれして進んでいきました。それぞれの魅力があるのですが、実は映画版と漫画版ではキャラクター造形がかなり異なります。漫画版の方が山田太郎の年齢設定が若いですし、元々のシナリオに近いのは漫画の方かもしれません。

映画版のキャラクターに関しては、二朗さんご本人が演じることが前提でしたので、その年齢感に合わせた調整が必要でした。脚本自体、二朗さんが自分で演じるつもりで書かれているのですが、僕の視点からは「あまりベラベラと喋りすぎない方がいいのではないか」と感じたんです。雄弁に語りすぎると、かえって本質を見失う気がしたんですね。

そのため、最初の段階で「セリフを一度削ぎ落としてほしい」というリクエストを僕から出しました。沈黙の中にこそ漂う空気感を大切にしたかったんです。

また、現在公開されている「右手の三原則」といったルール設定も、実は元々のシナリオにはなかったものです。映画化にあたってこうした要素を付け加えることで、映画ならではの独自の魅力を引き出していこうと考えました。

画像: 映画『名無し』特別映像【右手の三原則】|5.22(金)全国公開 youtu.be

映画『名無し』特別映像【右手の三原則】|5.22(金)全国公開

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──佐藤二朗さんご自身が書き上げた、いわば「生みの親」として誰よりも理解しているキャラクターを演出することに、難しさは感じませんでしたか。

そこはある種、割り切って考えていたので、難しさは感じませんでした。佐藤二朗が演じる山田太郎こそが「正解」である、という考え方ですね。

もちろん、脚本打ち合わせの段階では、プロデューサーや僕も含めて全員で山田太郎というキャラクター像を議論し、共通認識を作り上げていきました。ですが、いざ現場に入ってからの生理的な反応や、キャラクターの細かな挙動に関しては、「二朗さん自身が山田太郎なのだから」と、全幅の信頼を置いて託していました。

僕の役割は、その山田太郎を「どう映すか」、あるいは周囲の人間と「どう関わらせていくか」という点に注力すること。ですから、僕の方から「太郎はこんなことはしない」といった強い制約をかけることはほとんどありませんでした。

もちろん、全くなかったわけではありません。「この場面ではどう動くのが自然か」といった対話は現場でもありましたし、お互いにすり合わせをしながら進めていきましたが、基本的には二朗さんの内側から出てくるものを尊重するスタンスでした。

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──映画版の山田太郎というキャラクターは、監督、佐藤さん、そしてプロデューサー陣を含めたチーム全員で形作っていかれたのですね。

その通りです。それはおそらく、先行して動いていた漫画版も同じだったのではないでしょうか。漫画家の方も、元々のシナリオをかなりアレンジし、試行錯誤しながらキャラクター像を作り上げていったはずです。映画版はそれとはまた異なるアプローチですが、「チームで作り上げていく」という点では共通しています。

結局のところ、一人ではなく関わる人間全員でキャラクターや作品を構築していくことこそが、映画という表現の本来のあり方だと思っています。

──今回のプロジェクトを進める中で、佐藤さんと何度も打ち合わせを重ねられたと思いますが、その際、彼が発した言葉で特に印象に残っているものはありますか。

今回は「脚本家」としての二朗さんと山ほど打ち合わせをしましたので、特定の言葉というよりは、共に物語を編み上げていくプロセスそのものが濃密でした。

ただ、かつて「俳優」として初めて現場をご一緒した時に言われた言葉は、今でも鮮烈に覚えています。二朗さんはテストと本番で、全く違う芝居をしてきたんです。僕が驚いて「あれっ?」と声をかけたら、「僕は同じ芝居をなぞることができない人間なので、そこは勘弁してください」と仰った。

そんなことをはっきりと言われたのは初めてだったので、驚きと同時に、この人はなんて面白い表現者なんだろうと強く惹かれた記憶があります。その時の驚きが、今回の『名無し』という尖った企画に挑む原動力の一つにも繋がっているのかもしれません。

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