安田章大とのんがW主演を務める『平行と垂直』は自閉スペクトラム症(ASD)の特性を持つ兄・大貴と、幼い頃から兄を支えながらも葛藤を抱えてきた妹・希の姿を通して、「ただそこに存在していることの尊さ」を優しく、そして力強く問いかける。誰もが生きづらさを抱える現代社会において、この繊細な物語はいかにして紡がれたのか。監督を務めた小林聖太郎氏にインタビューを敢行。専門家や当事者への緻密な取材から見えてきたリアルな空気感、安田がスターとしてのオーラを消し去って難役に挑んだ舞台裏、そして物語の「本当の主人公」として希を描いた演出の意図まで、作品の根底に流れる真摯な眼差しに迫った。(取材・文/ほりきみき)

「大貴はASDの“代表”ではない」一人の人間としての多面性を描く

──本作は、安田章大さんが山野海さんのオリジナル脚本に感銘を受け、旧知の佐藤現プロデューサーに映画化を相談したことから企画が動き始まったと聞きました。山野さんの脚本を初めて読んだとき、どう思われましたか。

僕が読ませてもらったのは、安田くんと山野さんの間で一度揉まれた後の改訂稿だったと思います。やはり非常にセンシティブな題材を扱っているので、「ああ、いいですね、やりましょう」と簡単に乗っかれるようなことでは決してありませんでした。「本当にやっていいのかな、自分にできるのかな」という躊躇がまず先にあったのです。

ただ、まだ発展途上な部分があると感じられたからこそ、この本には先がある、未来があると思えたんですね。核にあるものはきっと、小さくて温かく、良い話になるだろうという希望が見えた。だから、「これで完成です」ということではなく、ここから一緒に本を作っていけるのなら頑張ってみたい、と思い、数日間ちょっと躊躇して考えた後に、「お引き受けします」とお答えしました。

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──その躊躇こそが、この題材と誠実に向き合う出発点だったのかもしれませんね。

気軽にやってしまうより、踏み出す時にそれくらい躊躇することこそが大事という気もします。そういう躊躇が最初にあったからこそ、いわゆる「障害を描いた、ザ・いい話」とか「美談」みたいな狭い枠の中に作品を閉じ込めずに済むんじゃないかな、もっと普遍的な話として描いていいんじゃないかな、と思えてきたんですよね。

きれい事にするのではなく、当事者でもない自分が「本当に大丈夫かな」とハラハラしながら、そういう気持ちを持ってとことん向き合って作っていく方が、かえって良いものができるのではないか。だんだんそんなふうに思えるようになっていったという感じでしたね。

──自閉スペクトラム症(ASD)の専門家の監修を受けながら、約2年をかけて脚本を練り上げたそうですね。

2年と言っても、途中で「ここまで作って、一度、資金を集めます」という休止期間があったりして、結果的にそれくらいかかってしまったということなんです。よく「構想10年」なんて言いますけど、あれは止まっている時間が長い(笑)。毎日毎日ずっとやっているのではなくて、何回かの空白と、ものすごく濃い何週間かが交互に来る、みたいなことなんです。結果的には「14稿」という形ですけど、1つの稿の中でも細かいやり取りがあったので、実質20稿くらいは重ねたでしょうか。

いろいろな側面からの指摘をクリアにしていったんですけど、最初に僕が感じたのは、第2稿を読んだときに「何も起こらない話」だな、ということでした。もちろん、それを全否定するわけではないんです。大貴という人や希という人が、ここから大事件を起こしたり、ものすごい成長を遂げたりする話ではないことは重々分かった上で、それでも前半と後半で「何かしらの変化」がもうちょっと必要なんじゃないか、という物語上のポイントがいくつか引っかかりました。

それと、こういう大きな事件が起きない話だからこそ、大貴という人物が本当にそこにいるように描けるかどうかが、かなり大事なことだと思ったんです。そのためにはASDについての取材や、描写の精度をさらに上げる必要がある。その「物語としての変化」と「描写のリアリティを高めるための取材」、初めの印象としてはこの2点が大きかったですかね。

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──ASDの専門家の方々に取材されている中で、特に印象に残っている言葉や、演出に直結した部分はありますか。

劇中のセリフにも出てきますけど、本当に「スペクトラム」という言葉の通りで、ここからがASDだという明確な線引きがあるわけではないんですよね。生活に大きな支障はなくても特性や傾向を持っている人もいれば、日々のサポートを必要とする人もいる。その幅の広さを改めて感じました。

あとは、監修の方に入っていただく前に、まずは僕たちがやりたい物語の形をしっかりと詰めようという話をしていました。プロットを固めてからお願いしたので、「この物語を成立させるためには、こういう特性だったらあり得るんじゃないか」とか「いや、さすがにそこまでいくと現実には厳しいのではないか」といった、かなり具体的なやり取りを重ねられたと思います。

それと、当事者の方々をはじめ、グループホームを経営されている方、アート活動をされている方、ソーシャルスキルトレーニングの塾を運営されている方など、いろいろな関係者の方とお会いして話を聞いたんです。その時に、皆さんが特定の誰かの具体的なエピソードを楽しそうに話してくれるんですね。「こんなことがあったんですよ」と言う時、ほぼ確実に、思い出し笑いをされる。

その人の実際にあったエピソードを話す時の、苦笑と微笑と、愛らしさが入り混じったような表情がすごく印象的でした。劇中で警察が絡むシーンがありますが、そこでグループホームの人や職場の同僚がちょっと苦笑してしまう。あの空気感に近いものです。「こんなことがありましてね」と語る時のトーンは、この映画の大きな足場というか、鍵になるなと思いました。

美談にするのではなくて、日常の中にいる人の「大変なんだけど面白い、ユニークさを持っているエピソード」を話してくれる。そのトーンを、この映画の中で観客の皆さんにもうまく追体験してもらえたらいいな、と思っていました。

──ASDについて何かを“教える”映画ではなく、ASDの特性を持った人も普通に登場する日常の映画だと感じました。

専門家の方から「こういうふうにしてください」という直接的な指示があったわけではないんです。ただ、取材を重ねる中で「自然にそうなんだ」と僕たちの理解が進み、結果として、こういう描き方しかできなくなったという方が正しいかもしれません。

そもそも、大貴一人の描写が「すべてのASDの人」を代表することにはなり得ないですし、本当に千差万別としか言えないんですよね。それに、大貴という一人の人間の中でも、ASDという要素はもちろん一部でしかありません。ほかにも大貴という人間を構成する要素は色々とたくさんある。観客の皆さんにも、彼がそういう多面的な一人の人間として見えればいいなというのは、ごく自然に感じていたことだと思います。

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