川上未映子の同名小説を、岨手由貴子監督が映画化した『すべて真夜中の恋人たち』。校閲者として働きながら、他者との距離を保ち、静かな日々を送る入江冬子を岸井ゆきのが演じる。冬子が偶然出会う三束役には浅野忠信、語りを松坂桃李が担当。原作のモノローグをどう映像化するか、2011年に書かれた物語を2020年台にどうアップデートするか――。登場人物の造形、物理学の言葉を介した恋愛の描写まで、細部にわたって映画ならではの表現を探った岨手監督。冬子と三束の距離、そして「触れる」ことの意味をどのように描いたのか。本作に込めた思いと、俳優たちとの創作について語ってもらった。(取材・文/ほりきみき)

「おとなしい」だけではない、冬子という人物

──主人公の入江冬子を岸井ゆきのさんが演じています。起用の理由を教えていただけますか。

直感的な部分も大きいのでうまく説明できるか分かりませんが、まず一つは、ああいった物静かなキャラクターは、実力のある俳優が演じないと面白い表現になりづらいと思ったんです。

冬子は一見するとおとなしくて内向的な人物ですが、実はすごく頑固で我が強く、超マイペース。その一方で脆さや無様さも持ち合わせている、複雑な人間なんです。

そうした人物を描くには、私がどう演出するかもありますが、演じる俳優の“足腰の強さ”というか、表現力の高さが不可欠でした。その点において、岸井さんへの信頼感は非常に大きかったです。加えて、原作者の川上未映子さんと対談された際の写真を拝見したことがあったので、お顔立ちや雰囲気が川上作品にしっくり馴染む感覚もありました。

──岸井さんとはどのように「入江冬子」という人物を作り上げていきましたか。

本当の意味でのすり合わせ作業は、実際に演じてもらいながら「こうだね」「ああだね」と確認していく必要があって、クランクインしてからのスタートでした。だから撮影の序盤は、歩くシーンや重すぎない芝居など比較的軽めの場面から入っていき、「この歩き方は冬子らしいね」といったことを一つひとつ確認していきました。

ただ、クランクインする前が一番大変だったと記憶しています。岸井さんは原作の大ファンだったので、映像化することに対して、読者として「映像化しないでほしい」という気持ちもあって、でも「やるんだったら私が演じたい」という思いもあったとおっしゃっていました。さらに、私と仕事をするのが初めてだったので、どこまでの感情の揺らぎや迷いが求められているのか、どの深度の芝居を求める監督なのかが分からず、ホン読みをした辺りでは結構ナーバスになっていました。

一方、私は私で、この複雑な女性像をどう演出するかをずっと考えていました。助監督の方が以前、岸井さんと別の作品でご一緒したことがあって、そのときもおとなしい感じの役だったそうなんですが、岸井さんと森田さんで軽く読み合わせをしたときに、「あの“岸井ゆきの”は見たことがありますね」と発破をかけられて(笑)。「言いたいことは分かるけど、もうちょっと待ってよ!」と私も悩んでいました。

ただ、私も岸井さんも「ありきたりな冬子にはしない」という共通認識だけは強くあったので、そこへ向かうための準備として、それぞれに時間が必要だったと感じています。

画像: 「おとなしい」だけではない、冬子という人物

引用した言葉で生きる冬子が、「凡庸な恋」を経験するまで

──映画では、冬子が校閲したゲラを納品した際の何気ない会話をきっかけに立ち寄った酒屋で、ラベルの文字に惹かれて栃木県の日本酒「仙禽(せんきん)」を手にします。お酒を飲み始める展開が非常に自然な流れとして描写され、文字を扱う校閲者の冬子らしさも感じられてとても素敵でした。

私も脚本執筆中にこのシーンが書けたとき、「あ、これで道筋が見えた」と感じました。

今お話しいただいた通り、映画版の構成でいうと、冬子がお酒にハマるきっかけはすごく重要なんです。原作では省略されているのですが、映画版では「ラベルが目に入る」というのを冬子のルーティンからの逸脱の起点にしています。最初、冬子は「酒の銘柄を記す文字が読み取れなかったら、書く意味がないのでは?」と考えるのですが、終盤では冬子自身も誰にも読まれることのない文字を書くわけです。また、劇中に出てくる「視認できない光は“存在しない”ことになるのか?」という問いにもつながっていく。そういうふうに、一つの出来事がいろいろなことのメタファーになって、別の場面へリフレインしていくような構造になっています。その起点が、あの仙禽のラベルなんです。

あと、店員に「同じものをイメージしているかは分からないけど、僕はこのラベルみたいな味だと思う」というようなことを言わせているのですが、これが三束を呼び止めて「私も光が好きで」と伝えるシーンにつながっていく。冬子はそこで「同じものをイメージしている」というフレーズを使うんですよね。つまり、冬子自身も気づかないうちに、街で出会った誰かがふと口にした言葉、耳に入ってきた言葉を使っている。冬子の言葉も、いろんな人からの引用なんです。

そのように、原作に書かれている一部を、映画では構造として起こしています。そういう意味でも、酒屋のシーンは非常に重要なシーンでした。

──友人の聖が「自分の感情が誰かの言葉の引用なんじゃないか」と冬子に吐露するシーンがありますが、冬子自身の中にも同じ部分があったのですね。

100%オリジナルの感覚だけで生きている人なんていないですよね。社会の中で生きていれば、誰かの言葉を聞いたり、誰かの考え方に影響されたりするものだと思います。聖の告白を聞いた時の冬子は「何の話か分からない、自分は違う」というような顔をしていますが、終盤で聖と衝突する場面で放つ言葉も、誰かが言っていた聖に対する悪口で、結局はすべて何かしらの引用なんです。

冬子は「私なんか……」と自分を肯定できない一方で、「私は周りとは違う」と特別視もしてきました。ですが終盤、聖から「冬子だってその辺に転がっているその他大勢と一緒なんだよ」と突きつけられます。三束との恋に、いつしか自分の服ではなく引用した服を着て、引用したデートプランで挑んでいた冬子はここで瓦解するわけですが、私が原作から読み取って、映画版の中心に据えたのはまさにここなんです。劣等感と自尊心を同居させていた冬子が、掛け替えのない、初めての恋を経験する。ですがそれは、世間的に見ればどこにでもある“凡庸な恋”であり、よくある失恋の経験なのかもしれません。ただ、勇気を出して傷つき、恋に破れるという経験をした冬子は、“特別さ”を失った代わりに、同じ想いで真夜中を過ごす見知らぬ誰かに思いを馳せるようになり、世界と繋がれたのではないでしょうか。

川上さんが描く物語は、孤独だから可哀想という単純なものではなく、良いことも悪いことも全て等価であるというような感覚がある気がして、そこは必ず映画にも反映させたいと思いました。

画像: 引用した言葉で生きる冬子が、「凡庸な恋」を経験するまで

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