「もし本当に自分たちのせいだったら」すべての始まりにあった火事
──本作は、15年前に花火遊びで火事を起こした龍之介と拓海、そしてその火事で妻子を失った埜本という、非常に重い過去を持つ3人の物語です。それぞれ「反省する」「封じ込める」「赦す」と異なる形で過去に向き合っていますが、この物語の着想のきっかけからお聞かせください。
僕が二十歳そこそこの頃、近所の子どもたちが花火をして遊んでいたら、偶然すぐ近くで本当に火事が起きたんです。アパートから住人の方々が逃げ出してきて、アパートが燃え、屋根が崩れ落ちるのを子どもたちが呆然と見ていたんですよ。自分たちがやった花火の火事だと思い込んじゃったんですね。
距離がだいぶ離れていたので、「君たちの花火じゃないよ」となだめたんですけど、その時に「もしこれが本当に自分たちのせいで起きた火事だったら、この子たちの人生って一体どうなっちゃうんだろうな」と思ったんです。それ以来、「火事でアパートが燃え、妻を亡くして自分も大火傷を負った男と、加害者の少年たちが十何年ぶりに出会う」という企画の骨組みはずっと頭の中にありました。
ただ、当時は火事のシーンを撮る技術的なハードルが高かった。それがCGなどの発展もあって、今ならやれるかもしれないと感じたんです。そこから「さあ、どう展開させようか」と、実際にシナリオを書き進めていきました。
──『四月の余白』では鶏小屋の火事のシーンが出てきます。“火事”は監督の中で何か大きなしこりのように残っていたのでしょうか。
そうかもしれないですね。言われてみれば、『神は見返りを求める』(22)という映画でも、岸井ゆきのちゃんが火だるまになって顔の半分に火傷を負うシーンがありましたから、俺って結構、人を燃やしているような気がしてきました。自分の中に「火に対する恐怖心」みたいなものが根強くあるのかもしれません。
僕は昔、水泳をやっていたので、水に溺れることへの恐怖感とかはあんまりないんですよ。だからこそ余計に、火に対してどこか恐れつつも惹かれてしまう、執着みたいなものがあるのかもしれないですね。
──『四月の余白』では「人は変われるのか」という問いが大きなテーマになっていましたが、『mentor』ではその問いをどのように引き継ぎ、あるいは裏切ろうと考えたのでしょうか。
『四月の余白』では、ある種まっすぐな眼差しで「メンター」という存在に向き合っていたんです。「こういう指導者がいたら希望が持てるんじゃないか」「人は変われるんじゃないか」という未来や可能性を描いた部分がありました。でも、心のどこかで「いや、絶対怪しいでしょ」という思いもあって(笑)。
実は僕、昔から自己啓発本をよく読んでいて、「なるほど、確かにいいこと言ってるな」と感心したりしていたんです。でもある時、知り合いが書いた自己啓発本を読む機会があったんですが、その本には他の本と同じように、すごく立派で完璧な内容が書かれていた。でも、書いている本人の普段の生活ぶりを知っているから、「こいつ胡散臭いな!」と(笑)。「お前、私生活で絶対これ実践できてないだろ」って思っちゃったんですよね。
それに、綺麗事やポジティブな言葉ばかり並べている人って、どこか不気味さや気持ち悪さを感じる瞬間があるじゃないですか。そもそも、人のダメな部分やズルさも含めて受け入れてこそ「愛」なんじゃないかという気持ちも僕の中にあって。だから今回は、そういう「一見いい人」に対する不信感や違和感を掘り下げてみようと思いました。
そうなると、結果的に『四月の余白』で描いていたテーマを自分自身で台無しにするような形になるんですけど、それもまた作品として面白いなと。自分がこれまでテーマにしてきたものを思い切って自らひっくり返すような試みをやってみたかったんです。

龍之介と拓海――同じ罪を、まったく違う方法で背負う
──拓海が埜本を「自分を生まれ変わらせてくれるメンター」と信じて急速に変化していきますが、その変化にはどこか危うさも感じます。
人間って基本的に、抱えている闇が深ければ深いほど、何かにすがりついた時の勢いが凄まじいんですよね。それって人によっては宗教だったり、推し活だったり、あるいはホストに全財産を注ぎ込んでしまうようなことと同じ構造なんだと思います。
周りから見たら「なんでそこまで全振りしちゃうの?」と心配になるようなハマり方をする人たちっていますよね。今回のメンターという存在への傾倒も、まさにそれと同義です。何かにすがるとしても、本来はもう少し客観的に距離を保ちながら、良い影響を受けるくらいが健康的じゃないですか。自分のキャパシティを把握しておかないと、一気に危険な領域に入ってしまう。
推し活にお金を使うのも自由だけど、「借金してまでやっちゃダメでしょ」という境界線は自分で引かなきゃいけない。でも、何かに盲目的になっている時って、その当たり前の線引きすら見えなくなってしまう。そこにすごく恐怖を感じるんです。
だから、作品の中で拓海が暴走していく姿を見て、例えば今まさに何かの推し活に激しくハマっているような人が観た時に、「あ、これ私の感覚にもちょっと近いかも……」とハッと気づいてくれたら面白いなと思っています。
──龍之介は、アーチェリーに打ち込むことで過去を封印してきた人物です。拓海とは対照的に、感情を表に出さない彼を描くうえで、どんなことを大切にされましたか。
龍之介は一番、“お客さんの目線に近い存在”だと思っているんです。埜本も拓海も、ある意味で“俺らとは違うジャンルの、ちょっといっちゃってる人たち”なんですよ(笑)。
だから龍之介のツッコミは、観客のツッコミに近い感覚なんです。なので、龍之介には“みんなの目線”をある程度乗せつつ、でも同時に「お前、性格悪くねえか?」という部分もちゃんと入れたかった。その“性格の悪さ”も含めて、龍之介は観客の視点なんですよね。ちょうどいいバランスを探したかったんです。
冷静で、ちょっと斜めから見ていて、痛いものを痛いと感じる。それって、結局は俺自身でもあるんですけどね。俺も結構、冷めた目で「痛いなぁ」と思いながら人を見ているタイプなので、龍之介には自分の要素がかなり入っています。
──自分の中に龍之介的な部分があるのを感じる人は多いのではないかと思います。
そうですね。でも、まさにそこがすごく人間臭いところだと思うんです。
当事者にならず、安全な場所から高みの見物を決め込んでいるような奴だからこそ、周囲の異常な状況を純粋な「コメディ」として鑑賞できてしまう。そういう歪んだ人間模様を描くことで、作品としてより味わい深く、面白いものになるだろうなと思って書いていました。

──15年ぶりに再会した龍之介と拓海は、同じ罪を背負っていながら、その向き合い方が大きく異なります。二人の関係性を描く上で意識した距離感はありますか。
同じ過ちを犯したとしても、反省の仕方や悲しみ方って人それぞれですよね。でも、人間って自分と相手で、その「向き合い方の表面的なギャップ」が大きいと、相手から自分の生き方や感情を否定されているような気分になるじゃないですか。
だからこそ、二人が同じ方向を向いて安易に平和を迎えるのではなく、正反対のスタンスで徹底的にぶつかり合うほうが面白いなと思ったんです。
そこを突き詰めていった結果、「反省すること自体が快感になって暴走していく拓海」と、「人一倍冷めた目で見てしまう意地悪な龍之介」という、極端な二極化に至りました。ただ、どちらのスタンスが正しいとか間違っているとか、そういう単純な二元論ではないという部分は大切にして描きました。
──拓海は「幼い頃はリーダーシップがあった」と設定されていますが、着地点からの逆算でしょうか。
いえ、それは違います。拓海のキャラクターを作っていく時に、子どもの頃に元気で明るかったやつが大人になって落ち込んで引きこもっているほうが、切なさが増すなと考えたんですよ。子どもの頃って、みんなを引っ張って新しい遊びを発見するような面白いやつがいたじゃないですか。逆についていくタイプの子がそのまま暗くなっていると「まあ、そのままだな」と感じてしまいますが、「あんなにリーダーシップがあって面白かったやつが……」という落差を描きたかったんです。
そうやって拓海の性格を設定して物語を書き進めていったら、僕自身も知らないうちにどんどんストーリーが転がっていって。僕も拓海の成長を書きながら見守っていた感覚だったんですが、気づけば自分でも手に負えないような結末にゴールしてしまった、という感じでしたね(笑)。
──では、監督が拓海たちと並走して物語を紡いでいったのですね。
実は、決定稿の少し前までのプロットでは、ラストの展開が全然違っていたんです。
当初は、物語の終盤でたまたま「第3の火事」が起きる展開を考えていました。15年前の火事では何もできなかった龍之介と拓海の二人が、逃げ遅れた人を救うために火の中に飛び込んでいく。でも実は中に誰もいなくて、途方に暮れながらも一匹の猫だけは救い出して戻ってくるんです。
二人は手に火傷を負うんですが、ラストで埜本も含めた3人がお互いの火傷を見せ合って終わる……という、なんだかちょっと「ほっこり」するような結末でした(笑)。
自分で書いておきながら「田恵輔にしてはほっこりしすぎているな」「なんか物足りないな」と感じて、もっとエッジを効かせたいと思ったんです。
そのタイミングで「龍之介をアーチェリー選手にしてみよう」というアイデアが閃きました。最初はベンチャー企業に勤めている設定だった龍之介を、オリンピックを目指すアーチェリー選手に変えて物語を転がしていったら、どんどん研ぎ澄まされてエッジが立ちすぎてしまい、結果として自分でも手がつけられないようなクレイジーなゴールに着地したんですよね。
ちなみに、一番最初のアイデア段階では「この3人で鳥人間コンテストに出場する」という話だったんですよ(笑)。
──驚くほど、変わりましたね。
そうなんです。最初はもう“自由に大喜利している”ような感覚でした。お題があったら、全然違う答えをいくつも出すじゃないですか。あれと同じ。ただ、お題は一つ、「この3人が出会ったらどうなるか」。それだけ。そこから「鳥人間コンテストに出る」とか、フリップに書くような案を最初は遊び感覚でどんどん出していったんですけど、途中で「これ破綻してんな」と気づく(笑)。そんなふうに、最初は本当に自由に、遊びながら作っていきました。

