タイミング良く、今年の9月に開催予定の「SKIPシテイ映画祭2021」に先駆けて、7月4日から18日まで、昨年の受賞作品や話題作をフィジカルな状態でのイベント上映が開催される。そこでの凱旋上映にも恵まれるという『stay』。また、地方での劇場上映も続いている。
モチベーションを下げることなく、コロナ禍も乗り越え、次世代の映画監督として前進する藤田監督。筆者の拙新刊『職業としてのシネマ 』(集英社新書)をいち早く読んでいただいていたので、映画の仕事と、その持続性などについて語ることが出来たことが嬉しい。
人的ネットワークが、ラックやモチベーションを生む
── そうだったんですね。助成にこぎ着けるまでは大変だったでしょうね。
「東京藝術大学大学院映像研究科(以降、藝大)への助成があり、本作のプロデューサー、井前裕士郎が藝大で学んでいたので、私に声をかけてくれて実現しました」
── なるほど。その助成金で製作費はまかなえたんでしょうか?
「多少の持ち出しはしていますが、機材や編集の費用は、藝大が援助してくれまして」
── そうは言っても、やはりたくさんの中から嘱望されての結果でしょうね。そこまではかなりスムーズに進んで幸いでしょうが、さて、初監督作品ですからいざ、作るとなるとそれなりのご苦労はあったでしょうね。
完成させるプロセスに問題が起き、途中で頓挫したり、人間関係が悪くなったりと、上手く進まないことが映画制作にはつきものです。チームワークですからね。それを監督するのが映画監督ですが、そのへんも上手くいったわけでしょうか?
「それも、スムーズでしたね。結局のところ、プロデューサー、脚本家、監督という三人が、もともと明治大学の映画サークルの仲間なんですよ。プロデューサーが明治大学卒業後、藝大でさらに映画のことを学び、コネクションも広がっていくわけです。今回の助成にしても。
ロケ先となった『空き家』は、私が映像の仕事で出会った友人が、脱サラして農業体験をできる民宿を作ろうとのことで、廃屋寸前の空き家を買い取ったという家が秩父にあったんです。それじゃあ、そこを使って映画作ってみようじゃないかというのが、『stay』を作るきっかけです」
社会的テーマを掲げるより、自分への癒しにもなる映画づくり
── 今、社会問題になっている空き家がどんどん増えていることの、これからの行方みたいなのを訴えたかったのかなー、なんて、作品を観だして最初は感じましたが、そういうことでもなかったのですね。
「私も親元を離れて、初めて家族って何だろうとか、両親との距離、両親を親というだけではなく、一人の人間として考えることが出来る様になったりして、同居すること、寝食を共にすることについては興味深いテーマかなと思いました。
一方で、撮影するにあたり、あの一軒家は実は、まだまだ廃屋のようにボロボロのスペースもたくさんあって、買い取ったまま、少しづつ持ち主が自力で改修している最中でした。この作品作りに必要なところを、撮影スタッフも必然的に改修を手伝わざるを得ないわけで、映画づくりなのか、民宿づくりなのかという面もあったんです(笑)。そういう時間は自分への癒しの時間にもなったような」
── そういうのいいですねー(笑)。場の持ち主の思うツボに、はめられながら映画を作るっていいじゃないですか(笑)。そして、廃屋って実に映画づくりに有効ですよね。
思い起すと、諏訪敦彦監督がトリュフォー作品で知られるフランスの名優、ジャン=ピエール・レオーを主演にして廃屋を舞台にした『ライオンは今夜死ぬ』(2017)は、レオーと廃屋を観ているだけで飽きない映画といっても良いくらいで、好きな作品です。この作品と諏訪監督インタビューは、この連載にもあります。
「だから、そういう感じの手作り感覚で撮りながら、何というか、これで成功しなかったらもう映画は作らないぞ、とかの思いつめたようなものが一切ない空気の中で、粛々と作っていくことが出来まして。上手くいかなかったら次回また、やろうよという気持ちでしたね」
スロー・ワークで、ストレス・フリーな演出
── 欲張らないというか、まったりと、仲間で、脱力系に楽しみながら作れたんですね。これぞ持続可能の精神でしょうか。ただ、俳優さんがそこに入ると、そうはいかなかったりして?キャスティングはどのようにしたんですか?
「私が映画監督としては全く知られていないわけですから、藝大の公募という形をとってもらって信頼を得ることが出来ましたね。実際、俳優たちには現場で今回のコンセプトを説明しながら、ご本人たちそれぞれのキャラクターを知り、『人格』に合わせて脚本を変えることもしたりして、演技をしやすくもしました。
なので、撮影も順調に進みましたね。でも、よく理解してもらえなかったようですよ、この話し(笑)」
── それも良かったんじゃないでしょうか?理解し過ぎで思い入れが強くなられても肩に力が入った演技になるし(笑)。全体が自然体でリアリティがみなぎっていましたよね。観ていると、その場に自分も一緒にいるような感覚がする映画でした。
途中での人間関係の亀裂もなく進んだというのは、やはり監督のお人柄もあるでしょうけれど、プロデユーサーと脚本家と映画監督の3人が、それぞれなりたい役割にはまっていたというのも、ベストなスタッフィングですよね?
「そうですね。脚本の金子鈴幸は、父親が映画監督の金子修介さんで、鈴幸も監督を志したこともあったんですが、現在、脚本家と劇作家をめざしています。そもそも、映画の世界に引き込まれていったのも、金子の家に遊びに行って、金子修介監督に映画の話しを聞いたりしてからですから」
映画監督より、ストリート・ダンサーだった
── それは、影響力が半端ではなかったんでしょうね。それまでは映画は興味がなかったんですか?
「興味があるとかないというより、子供時代の映画体験がない!北海道の岩見沢出身ですから、映画館らしきものがないんです。クリエイターとか、アーチストをめざすとしたら、ストリート・ダンスなんかしていて……。
大学進学で東京に住まうようになってから、映画に初めて親しんだ。池袋の新文芸坐で映画をたくさん観ました」
── どんな映画に惹かれましたか?
「今村昌平監督の『神々の深き欲望』(1968)とか、若松孝二監督の『処女ゲバゲバ』(1969)『天使の恍惚』(1072)、洋画だと、アントニオーニの『欲望』(1966)とか」
── 60年代、70年代ですかー。やっぱりその頃の作品は圧倒的ですよね。映画だなー、こりゃ、という存在感がある。
「『欲望』は、イタリアの監督がイギリスで撮るという感覚が、独特の世界を生み出していて好きです」
── 『欲望』には、ジェーン・バーキンがちらっと出てきて、本当にまだ無垢のままというか、磨かれる前といおうか、驚かされますね。その後英国では、作曲家のジョン・バリーと、その後のフランスでは、同じく音楽家のセルジュ・ゲンズブール、その後は映画監督のジャック・ドワイヨンを夫にして、女優として、歌手として磨かれていきました。そういう存在の初期の姿を観ることが出来るのも映画ならではなんですよね。
ドワイヨン監督のインタビューをこの連載でも掲載していますが、思い切ってバーキンとの絆についてうかがいましたら、素晴らしいお応えのコメントをいただけてグッときました。拙新刊『職業としてのシネマ』にも載せましたが、そこを読んで下さった方から、『ドワイヨンとバーキンの話しが、この本の一番好きなところです』という感想をいただき、監督インタビューの仕事を続けていて良かったなーと思いました。