斯波はサイコパスではなく、誰しもがなりうる
──本作は監督の企画とうかがいました。
葉真中顕さんの「ロスト・ケア」に出会ったのが2013年。読んですぐに「この本は映画にしなくてはいけない」と思いました。その頃、たまたま松山(ケンイチ)さんから電話をもらい、この本のことを話したら、彼もすぐに読み、「一緒にやろう」と言ってくれました。松山さんとは『ドルフィンブルー フジ、もういちど宙へ』(2007年)で一緒に仕事をし、お互いに「また一緒に何かやりたい」と時々連絡を取り合っていたのです。運命的なタイミングでしたね。それから斯波を松山さんが演じるという前提で、企画を立ち上げました。
──斯波をどのような人物として描かれたのでしょうか。
原作で描かれている斯波はある種のカリスマ性があり、殉教者たる自分が死刑になることによって世間や国に対して訴えるところまで計算していました。それに気づいたのが大友で、2人に奇妙な友情が生まれます。僕は斯波がサイコパスではなく、誰しもが成り得る、みんなが共感する人間であるとしたかった。あくまでも普通の人が追い詰められた果てに、そういうことをしてしまった人のやむに止まれぬ事として見せたかった。そのためには人間性が必要だった。
子どもが絵本を読んでいるところで「ハチドリのひとしずく」というエピソードを入れています。森火事に一滴ずつ水を運ぶハチドリに対して、森から逃げた動物たちは「そんなことして何になるのだ」と笑いますが、ハチドリは「私は、私にできることをしているだけ」と答えるというものですが、斯波はそういう発想で、自分が苦しんだのと同じように介護で苦しんでいる人を一人でも多く救いたいという思いで殺人を犯していました。それが斯波の人間性。多くの人を手にかけますが、原作にあるように感情を喪失したようにしてやっていたのではなく、自分に鞭を打ちながら人を救っていく、身も心も削るようにして苦行に打ち込むような人間にしたかった。
斯波は裁判の際、傍聴席から「人殺し」と言われます。予想していなかったので、少し揺らぎますが、自分がやったことは間違っていないと思い込むことで自分を防御します。それを解放させる役目として大友がいる。最後のシーンはお互いが抱えていたものを吐露するように見えればと思って、懺悔室のようにも見える作りにしました。
──企画はすぐに動き始めたのでしょうか。
いえ、手を挙げてくれる配給会社がなかなか見つかりませんでした。映画化への思いを伝えるには企画意図だけでは弱いと思い、自分で3パターンのシナリオを書きました。その熱意を受け止めてくださったのが日活の有重プロデューサーです。有重さんもすでに原作を読んでいて、興味があったものの、どういう切り口にするかが見えていなかったそうです。有重さんは僕が書いた脚本をベースに、原作では男性の「大友」を女性にすることを提案され、僕は斯波VS大友を描きたかったので、男VS女とすることでエンタメ感が増すと思いました。さらに原作では斯波が犯人だったことが後半になってわかって驚く仕掛けになっていますが、映画では犯人捜しは早めに終わらせ、なぜ殺すことになったのか、42人も殺したのはなぜかというミステリーにし、さらに調べる側にも秘密を抱えていることにしました。
──大友を女性にしたのはエンタメ感が増すこと以外に理由がありますか。
勝手な思い込みを打破することも理由の一つです。例えると、医者といえば男性、弁護士といえば男性、刑事といえば男性のように、いまだに刷り込まれたイメージがありますよね。当たり前のことですが、女性の医者も、弁護士も、刑事も、検事もいます。また、メインキャストに女性がいた方が観客層が広がります。何よりも、大友を女性にすることで女性目線が入った方が物語が重奏的になります。そして、これは人から言われて気がついたことで、自分では意識していませんでしたが、僕の映画は凛としている女性が多いので、そういう意味もあったのかもしれません。
大友もある秘密を抱えている。それが閃いたことと、折り鶴のエピソードを入れることができたことで、当初、映画の肝であると考えていた斯波と大友の対決だけでなく、観客があっ!と驚く仕掛けとグサリと刺さる要素が加えられたと確信しています。