多層的な原作を映画的に再構築
──原作は平野啓一郎さんの同名小説です。監督は池松壮亮さんからこの小説を勧められて、今、映画として取り上げるべき作品と感じ、企画を立ち上げたと聞きました。原作のどこに魅かれたのでしょうか。
これから世の中がどうなっていくのか。そのときに自分は何を感じて、どのように生きていくのか。特にこれからAIによって変わっていく世の中には特に関心がありましたが、そんなときにこの小説を読んだところ、「ほぼ間違いなくこういうことになるだろうな」と思いました。いま抱えている不安が丸ごと全部詰め込まれていて、僕がこれから体験していくことを先んじて書かれているという印象を受けました。それで、この世界を映画的に作り上げてみたいと思ったのです。
──映画化にあたって、平野さんから何か要望はありましたか。
複雑で多層的な原作世界を神話的に捉えたいという話をまずお伝えしました。亡くなった母親を甦らせ、それによって苦悩し続ける主人公は未来的というより大昔から続いている普遍的なキャラクターに僕には見えたからです。平野さんはセックスワーカーの表現、イフィーというキャラクターの在り様について話してくれました。ディスカッションはかなりしたと思います。
──原作は自由死、他者性、貧困や社会の分断といった格差社会、AI、VRといったさまざまなテーマが重層的に描かれているので、脚本に落とし込むのは大変だったかと思います。
平野さんは表現の層を意識的に作っていて、読者が浅くも深くも読める仕掛けになっています。脚本化する際はその層を減らしてシンプルにするのではなく、多層的な原作をできるだけそのまま、より映画的に再構築するということを意識しました。いろいろ要素が詰め込まれている映画のほうが個人的に好きですし。
──層の違いなのか、原作を読んでいたときは途中で朔也の母親のことが意識の中から薄らいでいたところがありましたが、映画ではずっと意識できました。
画面の中央にある椅子に前のシーンまではお母さんがいたけれど、今はいない。今度はその椅子に三好が座っていて、部屋の奥には母の遺影がある。そういった人の存在と不在の様子を映画では簡潔に見せられます。もちろん、演じた田中裕子さんの存在感も大きいと思います。田中さんの表情がいつまでも頭の中に残るんです。
──同じように、朔也の仕事についても、小説を読んでいるときは朔也の視点でしか物事が見えませんが、映画では朔也を周りがどう見ているのかも見えますね。
映画の表現の特性として、事実を客観的に見せる
ということがありますからね。
朔也の職業であるリアル・アバターという仕事は、考えれば考えるほど面白かったです。要は自分の身体を他人に貸し出して代理で動く、という仕事ですが、社会人なら誰もが人に命じられてイヤイヤ仕事することもあると思います。他人の要請や期待に応えるために動くこともあります。特に日本人は与えられた役割を演じることも多いでしょうから。そういう意味では自分にもリアル・アバターの要素が無いわけではありません。俳優の芝居を見ていて、リアル・アバター的だなと思ったこともありました。リアル・アバターは一見特殊な仕事に見えるかもしれませんが、実はこの景色はもう既に日常生活に溢れているんです。