恩師・大森一樹の突然の死と、“引き受けるべき使命”
──本作は大森一樹監督が京都府立医科大学の「創立150周年記念事業企画」に応募し、最優秀に選ばれてスタートしたそうですね。大森監督が急逝されたことで、緒方監督がオファーされましたが、そのときのお気持ちをお聞かせください。
大森一樹さんの訃報は、私にとってあまりにも突然の出来事でした。入退院を繰り返されてはいましたが、ご本人はいつも「大丈夫」と軽く話していて、亡くなる直前まで「来月ちょっと頼みたいことがあるから空けておいて」と電話をくださっていたんです。ですから、その知らせを聞いたときは信じられず、事故のような喪失感に襲われました。
私にとって大森さんは、親以上と言ってもいいほど大きな存在でした。師であり、先輩であり、時には悪ガキのように軽口を叩き合う仲でもあった。そんな方がいなくなってしまった――その現実を受け止めきれないまま、どこか気持ちが宙に浮いたような状態が続いていました。
そうした中でこの企画のお話をいただいたんです。プロデューサーから「やるか」と言われたとき、迷いはまったくありませんでした。喜びでもなく、嫌々でもなく、「これは自分がやるべきことなんだ」と、ごく自然に受け止めた感覚でした。まさに運命のようなものですね。
そもそも私が映画の世界に入った原点には大森さんがいます。1978年に『オレンジロード急行』でデビューされたとき、若い映画ファンだった私は、その姿に強い衝撃を受けました。ハリウッドでスティーヴン・スピルバーグが登場した時代と重なり、「日本にも新しい時代が来る」と震えるような思いで見ていたんです。
その後、自主映画を撮ったときにも、大森さんは私を評価し、背中を押してくださった。そうした人生の節々に大森さんがいる。だからこそ、この作品は自分が引き受けるべきものだと感じました。
脚本を手にしたときに思ったのは、「大きな置き土産を残されたな」ということです。これは単なる一本の映画ではなく、大森さんへの追悼であり、弔いでもある。正直に言えば、自分が撮っていいのかという迷いもありましたが、それでも「これは断れない依頼だ」と腹を決め、静かに引き受けました。

──大森監督の企画を引き継ぐうえで、大森監督らしさをどのように残し、ご自身の作家性をどのように加えましたか。
正直に言うと、「大森監督らしさ」を強く意識して撮ったわけではありません。そういうことを考えすぎると、映画は自由に作れなくなってしまうと思うんです。自分としては、あくまで目の前の脚本や俳優、スタッフと向き合いながら、京都という場所でこの作品をどう立ち上げるかに集中していました。そのプロセスの中で自然に形になっていったものが、この映画だと思います。そこに無理に“大森らしさ”を持ち込むことはありませんでした。
今回の脚本は西岡琢也さんによるもので、私にとっては憧れの存在でもありました。大森さんと西岡さんは盟友のような関係で、独特の距離感のあるやり取りをしていたそうですが、この企画については、大森さんが原案の映画『ふんどし医者』をもとに「脚本にしてほしい」と依頼したところから始まっています。
ただ、大森さんがこの作品で何をやろうとしていたのか、どこに面白さを見出していたのかは、実は誰にもはっきりとはわからないんです。西岡さんに聞いても「なんでやろうね」と笑っているくらいで(笑)。脚本を読んだ大森さんも「おもろいな」と一言残しただけで、その後、コロナ禍で企画が止まってしまった。だから、明確な“意図”は宙に浮いたままだったんです。そのため私は、脚本そのものの面白さを素直に受け取り、「緒方明の作品」として撮ることに集中しました。
一つだけ、大森さんを意識したのが、“軽やかさ”です。大森さんの代表作『ヒポクラテスたち』を改めて見返し、なぜあの作品が高く評価されたのかを考えました。医療という重いテーマ、生と死を扱いながらも、それを驚くほど軽やかに描いている。そのバランス感覚こそが大森一樹という作家の魅力だと感じたんです。
さらに言えば、大森さんご本人も非常に“軽やかな人”でした。さまざまな経緯で回ってきた企画も柔軟に引き受け、人と深刻に対立することも少ない。毒舌を言いながらも、次に会えば「まあええやん」と笑ってしまうような、関西的な軽さを持っていた。
だから今回の演出でも、人物や物語を必要以上に重たくしないことは意識しました。テーマは重くても、描き方は軽やかに——そこだけは、大森さんへのひとつの応答として大切にした部分だと思います。

