石塚の背中に刻んだ“母”と、アナログへのこだわり
──石塚の背中の刺青が見事でした。
三池:モチーフ自体は、例えば唐獅子に牡丹といった伝統的な枠組みを踏襲しつつも、デザインはすべてオリジナルです。映画でタトゥーを担当したスタッフと「石塚という役にはどんなモチーフがいいだろうか」と相談を重ねました。
結果として、彼の背中には女神というか天女を背負わせようということになりました。母性に、かろうじて守られている――彼自身がそういうものを慕っていたという設定ですね。それでいくつかの図柄の候補を出してもらい、本人の背中に仮のデザインを当てて大きさを決め、撮影のたびに3時間、4時間かけて毎回描き直していました。そこは今でも変わらずアナログですね。
今の時代なら、3DプリンターやAIを使って「背中のデータをバーッとスキャンして、一瞬で描き出しちゃえよ」みたいなこともやろうと思えばできるのかもしれませんし、もう少しすると、体をスキャンして筋肉の動きなども含めて、すべてAIが一瞬で計算して作ってくれるようになるのかもしれません。でも、そういうAIの使い方って本当は正しくないと思うんですよね。
人間が描けるもの、アナログでできるものを「時間がかかるから」「大変だから」という理由でAIに丸投げしてしまうのは、やっぱり間違った使い方じゃないかと。人間には到底できない領域――「これはもう物理的に無理だ」というものと、人間にしかできないアナログな表現をうまく組み合わせる。そして、人間の持つ力をAIによって増幅させたり、それぞれの対比をぶつけ合ったりすることで表現の幅を広げていくという形でないと、映画づくりの面白さは生き残っていけないんじゃないかと思います。まあ、こういうところをこだわると、プロデューサーには嫌がられますけどね(笑)。
今回の石塚というキャラクターにとって、背中の刺青がないというのは絶対にあり得ないことです。彼は孤児院で育ち、孤独の中をがむしゃらに生き抜いてヤクザになっていきました。その彼が「自分の背中に何を彫るか」となったとき、おそらく「天女=母親」を彫ったんだと思うんです。あの背中自体が、彼にとっての一つの別の人格であり、彼自身の切実な願いそのものなんですよね。自分の背中に天女がいてくれなければ、過酷な現実の中で生きていけなかったんです。
そういったキャラクターのバックグラウンドをスタッフ同士で話しながらデザインを決め、あとは現場で地道に描き込んでいく。そういうプロセスを大切にしています。
“見せない”ことで、観客の想像力を引き出す
──犯行中の石塚の後ろ姿を映し、正面は見せていません。だからこそ、正面では何をやっているのかを想像して、怖ろしくなります。どこまで見せて、どこから想像させるのか、監督はどのように考えられたのでしょうか。
三池:自分の昔の映画だったら、そういうシーンもしっかり見せていたんですよね。骨がバギッと折れる音を聞かせたり、肉の塊を作っていくプロセスもかなり丁寧に描いていたかもしれません。
ただ、今回は「肉団子を作るプロセス」そのものがテーマというわけではないんです。彼は、自分のやっていることが正しいと信じている。ある意味では、自分を裏切った人間たちへの復讐であると同時に、その「裏切り」という行為に対する一種の「許し」や「救い」でもあるわけです。
だからこそ、より多くの人にその人間たちのドラマを見てもらおうとしたとき、実は見せる必要のないものはあえて見せなくても、十分に感じてもらえるはずだという表現に行き着きました。オリジナル版(1992年の『バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリスト』)は、結構見せるものはガッツリ見せていますから、今回の作品で少し間口を広く、見やすくて強烈なものを届けることで、過去のオリジナル版の輝きもさらに増すでしょうし、その対比によってこちらの作品の魅力もまた引き立っていく。ただの借り物ではなく、お互いに相手を光らせるような――まるで共演者のような関係性に近い感覚ですね。だから、必要以上にグロテスクな描写を見せつける必要はないなとは思っていました。「いや、十分すぎるほどグロテスクだよ」と言われる方もいるかもしれませんが、そこは個人差がありますからね。
それに、すべてを生々しく見せるよりも、観客に「想像させる」方がより鮮烈に心に残るという事実は確かにあると思います。ただ、もちろん「見せることの刺激」というものも映画にはありますからね。じゃあ今回はどうバランスを取ったのかというと、別に「ここは見せよう、ここは隠そう」と最初から緻密に計算してやったわけではないんです。毎回の作品で、そこまで頭でガチガチに考えて演出するタイプではないんですよね。自然とそうなっていくというか、まあ無意識のうちに自分の中でブレーキがかかっている部分もあるのかもしれません。「自分の子どもにも見せられるかな」みたいな感覚がどこかにあるのかも(笑)。
でも決して、ベテランになってきたからこその「技法」や「テクニック」としてコントロールしているわけではないんです。「この作品の中ではこういうアプローチが正しいはずだ」「こうあるべきだ」というものが、自然と立ち上がってくる。そういう意味では、自分の中のリミッターは常に外しているつもりなんですけど、作品によって最適な表現方法は自然と変わってくるんですよね。それはもう、作品次第というか、脚本とキャスティング、そして自分を取り巻く環境といったものが自然と決めていくことなんです。
だから、トロント国際映画祭ミッドナイト・マッドネス部門で、真夜中に自分の過激な作品を見て大盛り上がりしてくれていたような昔からのコアなファンからすると、「あれ、今回は意外と普通にやってるな」と感じたかもしれないですね。ただ自分にとっては、「よっしゃ、計算してこうしてやろう」と狙ってやったというよりは、結果として自然にそうなっている、という感覚なんですよね。

“逆・楢山節考”から、日本的な“ファンタジー”へ
──本作では鳥葬という葬儀方法も描かれますが、監督はどう捉えていらっしゃいますか。
三池:あれは脚本の天願大介さんですね。いかにも天願大介らしいなと思います。まあ、彼は今村昌平監督の息子ですからね。「逆・楢山節考」というか、鳥にお世話になるというか、ある意味で自然に還るということですよね。
ちょうど今、日本でも大きな意味で「葬儀に対する感覚」というのが変わってきています。20年くらい前までは「お墓を守っていく」のが常識だったのが、いろんな事情――経済的な事情や家族構成の変化などによって、昔の常識が維持できなくなってきた。だからこそ、新しい常識を作っていこうとしている。今の時代は、まさにそういう転換期です。
そう考えると、私たちが今「絶対」と信じているものも、必ずしもずっと続くわけではないんですよね。むしろ、今、自分たちが感じている感覚をダイレクトに作品の中に反映させ、変えていくことが大事だと思っています。
そういう中で、鳥葬というのは「今だから」というわけではなくて、チベットではずっと昔から行われてきたことですし、そもそも日本でも昔はそうだったわけですよ。自然に返すという意味ではね。日本でも昔はごく一部の権力者だけが火葬して立派なお墓を建てていましたけれど、庶民は遺体をそのまま葬っていたわけですから。だから、天願大介の中では、それが「ごく自然な人間の葬り方」の一つとして、ずっと頭の中に存在し続けていたんだと思うんですよね。
──オリジナル版を現代の東京に置き換えるにあたって、宗教やドラッグをめぐる背景など、日本ではそのまま置き換えられない部分もあったと思います。日本を舞台にすることで、どのような物語として再構築されたのでしょうか。
三池:今回、オリジナル版を見たときに、麻薬を取り巻く事情や宗教的な背景といった要素は、そのまま日本に置き換えるには少しレベルが違いすぎると感じました。オリジナルには「信じる神が明確にあって、それは代々家族が引き継いできた家の教えのようなものなんだ」という背景がある。そこから実生活との間に矛盾やズレが生じて、社会的な「悪」と呼ばれるようになっていくわけです。
その「社会とのズレ」――言ってみればファンタジーですよね。それを日本映画の設定に置き換えるとしたらどうなるか。主人公は堕ちていく人間ではあるけれど、根っからの悪人というわけではない。ある志を持って刑事になり、正義を貫くためには必要悪として情報を得たり、ほとんど潜入捜査に近い形でアンダーグラウンドに関わっていく。その中で人間関係が生まれ、欲望に少しずつ飲み込まれ、借金を抱え、ドラッグも常用するようになって、そこにつけ込まれていく。
ただ、小栗旬が演じる主人公の場合は、「こういうダメな奴がいるんだ」という前提がスタート地点で物語が始まっているけれど、そこからまだ自分が這い上がれるという希望をどこかに持っている。だからこそ、脚本家としての天願さんには、「細部はリアルだけど、全体としてはファンタジーなんですよ」という共通認識があったんだと思います。
まあ、ヤクザ映画ってそういうところがありますよね。リアルな部分もあるけれど、基本的にはファンタジーというか。庶民――要は虐げられた者たちが、自分たちの方法で、自分たちの夢を闘争の中で勝ち取っていく。しかも、普通の人や政治家が10年かけてもできないようなことを、一発の銃弾で成し遂げていくという痛快さ。そういう勇気というか、自分たちではそう生きられない人間たち、特に昭和の時代の男性客ですよね。昭和の敗戦を経験した男たちの思いに、そういう任侠の世界がパチッとはまったんだと思うんです。昔の時代劇であってもそうでしたしね。
だから、これまではどちらかといえば「男性のための映画」という側面がありましたが、今回の作品は、もうそういう境界線がだんだん曖昧になってきていますよね。男性だけでなく、女性の観客の方でも、その人なりの楽しみ方ができる――そんな作品になっていればいいなとは思っていました。

