1992年の『バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリスト』を、現代の東京を舞台に再構築した『バッド・ルーテナント:トウキョウ』。小栗旬演じる刑事・矢吹恭二を軸に、日米のキャストが共演し、三池崇史監督がNEONをはじめとする海外の映画人たちとタッグを組んだ。俳優を“その役になれてしまう”状態へ導く演出、石塚の刺青に込めた意味、あえて見せないことで生まれる想像力、そして海外との映画作り。三池監督に、本作で挑んだ表現と映画への思いを聞いた。(取材・文/ほりきみき)

小栗旬に、まだ“暴れられる場所”を

──今回の主人公・矢吹恭二は、悪に染まっている一方で、どこか憎み切れない人間味もあります。その矢吹を小栗旬さんが演じています。小栗さんとは『クローズZERO』(2007)、『クローズZEROII』(2009)、『テラフォーマーズ』(2016)以来の再タッグですが、今回改めて小栗さんと組んだことに対する思いをお聞かせください。

三池崇史監督(以下、三池):我々が彼に新しい選択肢や希望を与えるタイミングに来たのかなという思いはありましたね。大河ドラマなど、何を見ても、彼は周りを圧倒してしまうようなポジションにいます。それは本人の努力はもちろん、彼の人間性というか、周りのいろんな人に声をかけて仲間を作ってきた結果なわけで、そういったことが圧倒的な芝居に現れてくる。そういう中で、この先どこに行くのか。

彼もまだやっていない役や、立っていないフィールドがたくさんあります。そこには、蜷川幸雄さんが亡くなってしまったことで、彼にとっての大きな表現の場所が一つ明確に減ってしまったという背景もありますよね。でも、我々が作る映画の中なら、小栗さんがまだまだ暴れられる場所が残っているんじゃないか。それを示せればいいなというのが、小栗さんに対する一番の思いではありました。もちろん、こちらのほうも彼の力を借りるわけですけれどね。

それに、ある意味で彼は“小栗旬”としての「佳境」に入っていると思うんですよね。普通はここまで大きなスターになってしまったら、あとは大御所として落ち着いていくのでしょうけれど、彼はそういうタイプじゃない。だからこそ、いつまでも第一線で戦える場所を提供したいなというふうに思っています。

──現場での小栗さんはいかがでしたか。

三池:楽しそうにやってましたよ。英語でのセリフがあったり、リリー・ジェームズやリヴ・モーガンとのやり取りがあったりして、ハードルは高かったでしょうけれどね。

しかし、それは大事な要素ではありますけれど、本質ではなく、あくまで一部分にすぎません。アメリカをはじめとする海外の映画の中に、自分の次の居場所を切り開いていくということは、彼にとって必要なことでしょうから。そういう意味では、英語に対する苦労や準備というのは、この作品のためだけにやるというよりは、日頃から訓練しておかなければいけないことですからね。

ただ、それと同時に「日本の映画をどう変えていくか」ということも、彼がやるべきことの一つだと考えているんじゃないかなというふうに思いましたね。

画像: 小栗旬に、まだ“暴れられる場所”を

俳優を“その役になれてしまう”状態へ

──連続猟奇殺人事件の容疑者である石塚満は、目や背中から狂気がにじみ出ていました。石塚を演じた間宮祥太朗さんには、どのような演出をされたのでしょうか。

三池:衣装とか、ロケ場所とか、あるいは脚本の段階で言えば「服を着ていない」とかね。そういう設定の中に、もうすべて書き込まれているんですよ。

役者が現場に来て迷うとすれば、それが自分の想像していたような場所ではない場合などですが、僕らの場合は、美術のセットによって床一面にビニールを敷いて血だらけにし、カーテンも血だらけにして、「ここで、後ろ向きで何も着ないでカッツンカッツンと何かを叩いている」という状況をまず作ります。それだけで、頭の中で考えて演じようとしていた、いわゆる「役作り」と言われるようなものから一歩先へ加速して、実際の芝居につながっていくんだと思うんです。

だから、やっぱり自分の気持ちがそこに乗ってこないと、いくら言葉で説明したところで、いつまでも頭で考えた役作りの延長で演じてしまうことになります。架空の世界のキャラクターではあるけれど、本番の間だけはその人間になりきれる――そういう環境や、カメラのカット割りなども大きいと思いますね。

「感情が高まっているのに、ここでカットが入るのか」とか、「ここは続けてほしいな」と思う瞬間もあるわけです。ただ、俳優側の心の整理ばかりをずっとフォローしているわけにもいきません。そこは、アングルを変えて同じシーンを重ねて撮るのか、あるいはあえてそこでカットして、別カットで30分後にその後の表情から撮り始めるのかという、そういうテンポ感が大切になってくるわけです。

どういう撮り方をしていけば、俳優たちがテンションを切らさず、むしろどんどん上がっていくのか。「ワンカット撮って、そこで満足する」のではなく、「ワンカット撮って、いまこういう状態だから次はこうなる。そしてその次はこうなって、こうなっていく」というふうにつなげていく。その中で、作り手が「ここまでテンションを上げてほしい」とすべてを計算づくでやってしまうと、役者としては面白くないわけです。

だからこそ、あえて逆算して、その前は抑えたりする。作り手が「ここまで持っていこうとしているんだ」というのを最初のカットから全開でやっちゃうと、役者は「じゃあ、この先どこまでテンションを上げればいいんだ」となってしまいますからね。役者たちが「え、ここでこのテンションでいくの?」というライブ感を楽しめるようにしています。

そういう理屈を言葉で話し合って、対話しながら作り上げていくというよりは、現場の美術や、血の飛び散り方といった環境そのものを用意して、テストをやって本番に臨むことで、自然と「その役になれてしまう」という状態を作るようにしています。だから、どの俳優たちも、自分が計算した通りにやったわけではないはずなんですよ。

それが、映画を作るうえで自分にとってすごく大事な部分というか、現場の「臨場感」なんですよね。すべてを自分で完全にコントロールして、とんでもないキャラクターを自分の思い通りに動かそうとするなんて、そんなの面白くないじゃないですか。人の言うことを聞いて型通りにできたキャラクターというよりは、役者がその場所に放り出されて、ガーッと湧き上がってくるもの――その瞬間をちゃんとカメラで捉えていればいいのかな、という感じですね。

画像: 俳優を“その役になれてしまう”状態へ

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