ヒロインとわかりやすい悪役でエンタメ性を高める
──土橋さんは脚本も書かれています。小説を脚本にするには、エピソードを取捨選択せざるを得ません。わが子のような小説からエピソードを捨てるのは辛い作業ではありませんでしたか。
それが脚本開発で揉める原因の1つなのですが、僕は小説と映画は別のエンターテインメント作品だと思っています。小説と映画では面白いところが明らかに違う。小説は頭で想像していくところが楽しいですが、映画はこちらで舞台を用意して見せていく。原作はあくまでも原案で、脚本は監督やプロデューサーとみんなで作り上げ、新しい物語として楽しむという気持ちがあります。
映画は2時間の尺の中で人間関係に焦点を当てたドラマを作り、小説よりもエンタメ性を高めています。例えばヒロインやわかりやすい悪役を登場させ、コメディも加味することで、誰が見ても楽しめる脚本を作る。本打ちで話し合うからみんなの意図もわかり、そこはそうした方が面白いよねと納得がある。小説は1人で育てたけれど、映画の脚本はみんなでセッションして育てた集団演芸の楽しさがあります。“両方やらせてもらえてラッキー”みたいな感覚です。
──孝証と大石内蔵助が出会うシーンですが、原作では内蔵助が池田久右衛門と名乗ったので、2人のやり取りを読んでいるときには、そこで孝証と内蔵助が出会ったとは気が付きません。2人が別れてから大石主税が「父上」といって迎えに来たことで、池田が実は内蔵助で、孝証と内蔵助はそこで出会っていたことがわかります。映画ではムロツヨシさんと永山瑛太さんが演じることで観客に最初から2人が出会ったことがばれてしまいます。
小説は頭で想像していき、映画は用意された舞台を見るという違いでしょうか。
瑛太さんが出てきたら、名乗らなくても観客には大石内蔵助だとわかる。それを逆手に取って、観客にはわかっているけれど、孝証にはわかっていない面白さがあります。映画では積極的に観客にバラしていき、2人がどうやって打ち明け合うのかというところを山にしました。
また映画では孝証が先に、一緒に飲んだ男が内蔵助だと知るのですが、孝証が内蔵助に本当のことを言いたいのに言えないのも面白みだと思います。
──原作では吉良上野介と浅野内匠頭を「2人の暗愚」とし、下につくものたちが辛い思いをしたとしていますが、映画では柳沢吉保が1人で悪役を引き受けた印象を受けました。わかりやすい悪役という立ち位置なのですね。
エンタメ的なわかりやすさを重視して、悪役を目立たたせたのです。
小説では部下が上司の失敗の後始末に奔走するサラリーマンぽいところでコメディ感を出しつつ、後始末をさせられる孝証と内蔵助の友情を描いていました。映画は見てすぐに「明らかにこいつが悪い」とわかることが大事。悪役を柳沢吉保以外にいろいろと変えてみるとストーリーがどうなるか。作り手としての楽しみも味わった上で、柳沢吉保を悪役にしました。過去にもそうした忠臣蔵があるのです。