映画『湖の女たち』は数多くの小説が映画化されてきたベストセラー作家の吉田修一と、多様なジャンルの話題作、問題作を世に送り出してきた大森立嗣監督が『さよなら渓谷』(2013)以来、10年ぶりにタッグを組んだヒューマン・ミステリー。介護施設での殺人事件を発端に、想像もつかない方向へとうねり出す物語は、重層的な構造と壮大なスケール感で観る者を圧倒する。公開を前に大森立嗣監督にインタビューを敢行。作品に対する思いや演出について語ってもらった。(取材・文/ほりきみき)

日本の監督レベルでは使い切るのが難しい浅野忠信


──濱中圭介を福士蒼汰さんが演じています。福士さんは好青年のイメージが強く、圭介を演じると知って驚きました。

高校生として学生服を着て、脚本に書いてあることをきちんとする。福士くんは役に自分を近づけることが演技ということでやってきたのではないかと思います。でも、僕の演出は違う。「刑事だから…」、「何とかだから…」ということで演技をするわけではありません。今回は圭介を福士くんに当て書きしたわけではありませんが、役を自分に近づけるという全然違うアプローチをしてもらいました。

この作品の圭介は福士くんにしかできない。福士くんという人間の根本にあるものは、他の人では取り替えがきかないのです。

福士くんは若いので、僕のような演出家と出会っていなかったのかもしれません。彼にとってはいい機会だったと思います。

画像1: 日本の監督レベルでは使い切るのが難しい浅野忠信


──具体的にはどのように演出されたのでしょうか。

「こうやってこういう距離感で松本(まりか)さんが歩いてくるけれど、そのときにどこでセリフを言いたくなる?」といった感じで話して、「ああ、そこでいうんだ」と福士くんの圭介を受け止めます。でも何か違うときは、「それ、そこで言いたくなるんだ、それ、本当?」というのです。そうすると福士くんが改めて自分がどう感じているのかを振り返るわけです。

相手の表情を見たり、セリフを聞いたりして、自分がどう感じてセリフを言うのか。相手が怒って強く言ってきたとき、自分も強く言いたくなるのか、むしろ自分は優しく言うのか。それは福士くんだけがわかること。それをちゃんとやろうと言い続けていました。

僕は基本的にどの作品でもどの役者にもそうやって演出しています。だから福士くんに限らず、どの役の人も脚本にあったからセリフを言っているのではなく、自分がちゃんと言っているようになるからいい演技になるのです。


──そうすると俳優の方が演じるキャラクターは監督が考えていたキャラクターにならないこともあるのですね。

もちろんです。脚本を書いてカット割りも全部自分で決めているから、イメージはもちろんあるのですが、そのイメージは壊れてしまっていい。その典型は浅野忠信さん。最初、僕のイメージとは違う感じでやっていました。

浅野さんとは時々喋っていたけれど、「わかりました」と言いながら、僕が言ったことはあまり直っていないと思いました。「もう少し強く言ってほしい」と伝えたのに、あまり強く言ってくれなかったところが前半にありました。なぜかなと思って、いろいろ喋っているうちに、浅野さんが感じることの方が僕の思っていたことよりも面白いと気づいてしまう。浅野さんは自分の役について考え抜いていて、それを体現する力があるのだと思います。あとは僕たちがちゃんと撮るだけです。

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──浅野さんが演じる伊佐美に凄みを感じました。

彼は90年代前半に出てきましたが、僕にはすごい衝撃だったんです。同じ世代なので最初から見ていたのですが、絶対に嘘をつかない演技をする。その代わり感情の振り幅もそんなにやらない。新鮮でその時代を纏った新しいスターだったと思います。

ところが相米慎二監督の『風花』(2001)に出た辺りから、演技の幅をどんどん増やしていく。ものすごく考えていて、変化を恐れない。ハリウッドに行くこともその流れの中にあって浅野さんにとっては必然だったのではないでしょうか。浅野忠信はすごく魅力的で力がある俳優だと思います。変化を恐れる旧態然とした日本の監督では使い切るのが難しいかもしれません。

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