映画『湖の女たち』は数多くの小説が映画化されてきたベストセラー作家の吉田修一と、多様なジャンルの話題作、問題作を世に送り出してきた大森立嗣監督が『さよなら渓谷』(2013)以来、10年ぶりにタッグを組んだヒューマン・ミステリー。介護施設での殺人事件を発端に、想像もつかない方向へとうねり出す物語は、重層的な構造と壮大なスケール感で観る者を圧倒する。公開を前に大森立嗣監督にインタビューを敢行。作品に対する思いや演出について語ってもらった。(取材・文/ほりきみき)

週刊誌記者の存在がこの作品の肝


──松本まりかさんはいかがでしたか。

松本さんは何回か仕事をしたことがあるし、ワークショップに来てもらったこともあります。今回はかなり難しい役ですが、引き受けてもらえて本当によかった。大分ナイーブになっていたので、現場では「考えすぎちゃいけないんだよ」という話をずっとしていました。福士くんと同じで、準備はしておいてほしいけれど、その場で反応することが大事ですから。

とはいえ、あの行為をするという精神に自分を持っていかなくてはいけない。それは大変だと思う。俺はあまり気にしないで、見て見ぬふりをしていたけれど、それでもやっぱりキツそうでした。ですが最終的に自分でやり切った。ここが勝負だと思ったのだと思います。彼女の代表作になったと思っています。

画像1: 週刊誌記者の存在がこの作品の肝


──週刊誌の記者の池田は原作では男性ですが、本作では女性にされたのはどうしてでしょうか。

僕は書評で感じたことを書いていますが、旧日本軍の731部隊の人体実験、製薬会社MMOの薬害事件といったものが世の中の悪い部分として歴史の中にあり、そういう中に僕たちもいる。731部隊に夫が関わっていた松江は満州時代を思い出しながら「私はそれ以来、美しいものを見ていない。それが私の一生や」と言います。それを受けて、記者の池田が「世界は美しいんですかね」と伊佐美に問いかけるわけですよ。池田が男性のままだと僕たちが持っている記者のイメージに回収されて、いろんな嫌なこと汚いことに触れても受け入れてしまうだろうと思ってしまいがちですが、池田を女性にすることで、ものすごくニュートラルに物事を見つめられるというか、敏感に心を揺らしながら見つめられるので、“世界は美しいか”ということに触れていけるのではないかと思ったのです。彼女の存在がこの作品の肝になっています。


──池田が女性になったことで「湖の女たち」の1人として連なりましたね。

それも大きな要素の一つです。と言いながら、実は無自覚的にやっているんですけれどね(笑)。

映画を作るときはいつもそうなのですが、そんなに考えてやっているわけではないです。自分が「違うな」とか「いいな」と思うことに反応していくことが多く、後から言葉をつけているところもあります。

なぜ、女性にしようと思ったのか。湖の“女たち”ということが1つあり、「それだけではなくて…」と考えたときに、さっき言ったみたいなことなのかなという思いに至りました。


──その池田を福地桃子さんが演じています。福地さんに記者のイメージがありませんでした。

そうなんです。今回、700人ほどの方とオーディションをやらせていただいたのですが、原作があるから、どんな週刊誌のどんな記者なのかをわかっている。みんな記者っぽい服装で、髪もそれっぽくしてきていたのですが、彼女だけは週刊誌の記者の雰囲気が全然なかった。そこら辺がかえっていいなと思ったんです。

僕はモノを作っていくときに、あらかじめあるイメージに回収されるのが嫌いなんです。福士くんが演じることによって勝手に濱中という刑事の役が福士くんに近づいてきたように、福地さんが演じることで池田という週刊誌の記者の役が福地さんに近づいてくればいい。

音楽もそうです。テレビドラマだと感情を盛り上げるためについている感じですが、俺には映像と音楽は一つ一つ確立してある。音楽をつけることによって新しいものが生まれてくるようなことを映画作りのときに通底してやっています。

画像2: 週刊誌記者の存在がこの作品の肝

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