映画『湖の女たち』は数多くの小説が映画化されてきたベストセラー作家の吉田修一と、多様なジャンルの話題作、問題作を世に送り出してきた大森立嗣監督が『さよなら渓谷』(2013)以来、10年ぶりにタッグを組んだヒューマン・ミステリー。介護施設での殺人事件を発端に、想像もつかない方向へとうねり出す物語は、重層的な構造と壮大なスケール感で観る者を圧倒する。公開を前に大森立嗣監督にインタビューを敢行。作品に対する思いや演出について語ってもらった。(取材・文/ほりきみき)

雑味のようなものが含まれているものに魅かれてしまう


──原作は吉田修一さんが書かれた同名小説ですが、お読みになっていかがでしたか。

映画化の打診をいただく前に読みました。頭の片隅には“もしかして映画化できるかな”ということはありました。それはどの小説を読むときにもありますけれどね(笑)。書評を書いていますが、吉田さんはものすごい小説を書いたなと、本当に感動しました。

ですから、編集者の方に「『大森監督が映画化してくれないかな』と吉田さんがつぶやいています」と言われて、素直にうれしかったですね。難しい本だなとは思いましたが、どの映画も撮るとなると大変ですし、難しいと思われるものの方が映画にはいいときもあります。プロデューサーに相談して、企画が動き始めました。


──介護療養施設での不審死、薬害事件、戦時中の満州の731部隊のことなど、内容が多岐にわたっています。難しさというのはそういった辺りでしょうか。

おっしゃる通り事実にインスパイアされた歴史を遡った話がいくつもも出てくる。吉田さんは「とっちらかっちゃった!」と冗談めかして言っていました。ですが吉田さんは確信犯だと思います。僕自身はきっちりまとまっている小説も好きですが、この作品のようにいろんな人がいろんなことをしている小説が結構好きなんです。むしろ、余分というかあふれちゃっているものというか、雑味のようなものが含まれているものに魅かれてしまうところがある。

つまりわかりやすさはどこか人間の複雑な想いを矮小化しているんじゃないかと思う。現代においては一筋縄では行かない人の感情や想いにあふれているんではないかと。だから現実には悍ましい出来事が毎日のように起きるのではないかと思います。映画はわかりやすさも必要ですが、今を生きる私たちに拮抗する必要もあると思うのです。

画像: 雑味のようなものが含まれているものに魅かれてしまう


──圭介と佳代は後戻りできないインモラルな関係に堕ちていきます。脚本を書く上で意識したことはありましたか。

あの2人は恋愛みたいなもので回収されない関係性です。そういう意味ではインモラルでもない。湖のようにただそこにいるのです。僕たちは何かしらの言葉に置き換えないとあの2人を受け止められないと勘違いしている。うまい言葉が見つからない、解釈できない、うーん困ったなみたいな。

では、なぜあの2人の関係は言葉に当てはめにくいのか。圭介と佳代は生産性というものに抗っているからなんです。生産性という言葉は経済的にみると“正しさ”を装ってしまうところがあってとても恐ろしい。コスパやタイパという言葉がもてはやされている今は生活レベルにまで侵食してきている気がします。しかし人間という生き物は生産性だけでは生きていけない。極端に言えば生産性なんてなくたっていいんじゃないかと思っています。小さな子供を見てください。新しいものやわからないものを見つけると興味を持つじゃないですか。そして世界を知り、自分を知っていく。

それが成長していくことです。私たち大人はモラルや生産性という言葉を巧みに扱って世界を矮小化しているのかもしれないとも思います。

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